これはブログではない

ブログです。

オタクの春

 ヒュー! みんなー! オタクとしての人生楽しんでいますか。私は春コミに行きました。ずっと冒頭のテンションでした。
 これは私にとっては二回目の同人イベント参加になります。いや、中学生の頃に地元で開催されていたささやかなものを数えると三回目です。この地元で開催されたイベントというのは公民館のようなホールかなんかで開催されていたものだったのですが、当時は著しく迷いました。乗る流れがないためです。過疎、少子化、そんな言葉がよぎる地域ですので、思い出すとつらくかなしい心地がします。
 私は前回、バレンタインデーに開かれたプチオンリーを目当てに参加しましたが、迷いました。もはや場所を覚えていませんが、そのときの私はさも当然のように痛バを下げたお姉さんに着いて行き、しれっと「ああ目的地同じなんですね、お互い楽しみましょう」みたいなツラで会場に着きました。行けるのかよ、と思いましたし、この方法は池袋でアニメイトに行くときにも使いました。池袋で痛バのお姉さんに着いて行くと、大抵、ゲーセンかアニメイトに着きます。
 そして今回です。何も学習していないので、友人が調べてくれた経路で向かったのですが、なんと徒歩でバス停からバス停に移動するくだりがあり、迷いかけました。しかし私も迷いのプロですので、今回もトートバッグを持ったお姉さんに着いていけばなんとかなるの精神で友人を連れて尾行しました。着きました。俺は洞察力の神……という全能感に包まれかけましたがそもそも迷っているので全能ではない。

 難なく(?)到着すると、まあ並んでますね。並んでました。ああこの空間には見覚えがあるなぁと思いました。全て前回に由来した記憶です。前回はオタクの人に囲まれて心が死んでいましたので、その現象は今回も懸念してはいました。は? 意味がわからんという人も少なからずいると思いますので、解説しますと、私はオタクの人に囲まれると自我が弱くなり死にたさに震え上がる性質があるようでした。これはあんステのライビュ(?)でも体験した心の動きです。ここにいる全員がオタク、そして私も……と思うと、よし、死ぬかという決意が頭をよぎります。なんなんでしょうね。同じ気持ちになる人がいたら是非語り合いませんか。
 それはそれとして、今回は魂の友【ソウルメイト】を連れていましたので、あまり死にたくなりませんでした。同様の衝動に駆られる民には朗報なのですが、親友を連れていくことでこの迫り来る希死念慮には勝てます。常にベラベラ喋っているので。うるせぇガキどもだなと周りの人には思われていたことでしょうが、成人しているのでうるせぇだけでした。許してください。今こそ希死念慮の発動時だろ、という気がしますが今回は生きる気満々でした。

 初めは友人の目当てのスペースへ向かいました。私は友人の好むジャンルに詳しくなかったのですが、その本というのが素晴らしく、雑誌のような様相を呈していました。考察本というと伝わりやすいかもしれません。すごい。友人が入手したものなので詳しくは見ていませんが、なんか、すごかったです。
 友人は謙虚な人間なので、「私が見たいものを見たらあとは絶対服従するよ」と言いました。なので、次は私の目当てのスペースへ行きました。私は実はハンドメイド品やグッズなどのサークルを好んでいましたので、適当にぷらぷらしていましたが、そのあたりでもう脳のタガが外れていて、ずっと「すげえ。絵が上手い人がいっぱいいる。絵が上手くてすげー。絵が上手いよ! 絵が上手い。あっ絵が上手い人が上手い絵で本を出している……」みたいなことを友人に話していました。そのため話しすぎか酸欠で頭が痛くなってきたのがアホポイント高めだと思います。

 今回は、欲しい本がある、気になるサークルがあるというよりはフォロワーさん(実際は相互の民ですが、フォロワーさんという語感に好感を覚えているので、以後もこれでいきます)に会うことを第一目的としていました。しかし、オタクの「特に欲しいものはないかな」はおおよそ信用ならないものですし、事実サクッと「全部ください。合計いくらになりますか?」を言いまくりました。ここでのポイントは買う意思を表示してから合計金額を尋ねているところです。気分は富豪。実際のところはなかなかの素寒貧だけど。

 フォロワーさんには三名会ったのですが、いや、私のコミュニケーション能力は使い物にならなかったので、常に「あっええと、これ……その……ハイ」などと挙動不審な態度で前日に一筆書いたものを手渡し、その名前を確認したフォロワーさんが「ああ!」と気付いてくれる……という過程を繰り返しました。本当にすみませんでした。自分のハンドルネームくらい自分で言えるようになりたいです。いや、その前に名札作ろうな。
 差し入れ(?)や手紙をいただいたり、イラストをいただいたりして、ここは……神の集い……? と思いました。あんまり間違いじゃないな。私は明治ザ・チョコレートを分解したものとノートパッドをハサミで切った一筆箋を渡しました。推し学校色です。だから免罪されるものでもないと思いますが、いずれ準備していきたいです。

 画材が置いていたり、液タブがあったり、なんか見慣れない食べ物屋があったりして驚きましたがまた行けたら行きたいです。なんかほんまにお祭りだね、と語り合いました。楽しい。ありがとうございました。また来たいです。春休みの作文。いずれサークル参加してみたいな、と思いましたがその場合私は何を出すつもりなんでしょうね。一度小説再録とか出してみたいです。書けよ。

 戦利品には少し目を通したのですが、あの、推しキャラ、可愛くないですか? 可愛い。顔が可愛い。絵が上手い。こんな絵が上手い人の絵が永遠に見れていいのか? タダみたいなもんじゃないか。可愛い。

 

完璧な他者しか他者ではない

 他人が完璧に見える。というと言い過ぎかもしれないが、しばしばそのような感覚に襲われる。
 問題がない他者と問題がある自分、というような自意識がある。もし問題がある他者に出逢えば私はそれを自分に近いものとして内側に入れてしまうから、問題がある他者が減っていくんだろう。生存バイアス、最近よく聞いているような気がするが、まあそんなところなんだろう。対象に問題あり。

 

 私には友達が少ない。既存のコミュニティ、例えば部活動やサークル、あるいは学級などに属するのが苦手なのが理由の一つだろう。出来上がったしきたりのある空間で人間関係を築くのがどうにもだめなのだ。数少ない友人とは、偶然、帰り道が一緒だったとか、説明会で隣だったとか、そういう縁から繋がることが多かった。第一印象から決めてました、が大半である。第一印象でピンとこなかった人とはあまり上手くいかない。友達の友達、などはそこそこ共に行動したりもしたが簡単に切れてしまった。つくづく才能がない。
 私には、もしくは私にも、相手がどういう性格かをパターンで判断しようとする癖がある。同じ人間かそうでないかを見分けようとしている。ここはあまり人間関係において重要ではないが、その判断基準はなんだろうかと考えたときに「自分を大切にすることに抵抗がない人は自分とは別の人間に見える」というある種の法則に気がついた。
 自信があるとかないとかとはまた別の話で、よし、自分を甘やかすぞ、と気合を入れる必要がある人と、普段から自然に自分を守ることができる人との違いに、私は敏感なんだろう。そして後者には「自分とは違う人間だ」と思う。そういう人から好感のようなものを向けられると、理由がよくわからないので「はあ、そうですか」という気分になる。つまり、虚無。あなた、私が見えるんですか。幽霊のようなことを思う。
 こちらが見えていない状態だとよく「おもしろーい」という言葉が出る。こっちは何も面白くない、と思いながら乾いた笑いを喉から出すことになる。他者を娯楽として消費することに迷いがない。自分を大切にできる人は違うなぁと嫌味のようなことを思う。ここまでくると好意というか悪意にしか見えない。私はエンターテイナーではなく、人を笑わせたいなどということは考えたこともないので、これはこれで「はあ、そうですか」という気分になる。おさらいですね、虚無です。完璧な他者のくせになんなんだ、といちゃもんをつけたくなる。私も理解する気がない、相手もそうなんだろう。
 しかし彼らのそういった態度はおそらく処世術に分類されている。全く面白くなくてもとりあえず面白がっておきましょう、という宗派なんだろう。思想、良心の自由。自分とは違う思想の人がそのへんを歩いているのは、当然ですね。こちらはその処世術に文句をつけているので、心の商店街はシャッター通りと化す。白馬の王子様は来ないし、鉄扉を開く理解者も来ない。童話ならとっくに魔女になっていそうだな。映画化して主題歌がやたらめったら流行ってほしい。

 

 ところで数少ない友人達から共通してよく聞く評価に「君のような人は見たことがない」というものがある。どこについてそう言っているのか私にはわからないが、私のような人間はたしかに遭遇率が低いんだろうと予想できる。私のような人間にはたぶん友達が少ないので。バイアスですね、言っておけばいいと思っている。

 

 

 

地球人的生活について定期購読したい

 ここだけ別の惑星なのだと思う。

 先日、鞄の中身を整理した。私の鞄は様々な本がしこたま入っているために、ちょっとしたトレーニング器具と化しているのだが、ベルトが引きちぎれそうになっているのを見て流石に「これはどうか」と思ったのだ。
 書籍がやたらめったら入っているのはもはや仕方ない(アイロンで糊を溶かしカッターで分冊するなどの工夫は凝らしたので、免罪してほしい)として、ポーチがあまりに嵩張っていることに気がついた。
 私は筆箱の他にポーチを一つ持っている。青いストライプにとぼけた顔のムーミンがプリントされている。かわいい。ムーミンは白くて柔らかそうなので好きだ。この理屈だと餅でもいいことになりそうだが、とにかくこのポーチ自体は気に入っている。しかし、パンパンなのだ。あのむちむちのボディを持つムーミンにすらダイエットを勧められてしまいそうなほどである。藤色のあんがみちみちに入ったアンパンだったら最高なのだが、これはポーチなのであまり最高ではない。
 何が入っているんだ。
 確認したところ、というか入れたのは私なので確認するまでもないのだが、主に文具、それから鏡とささやかな化粧品が入っていた。糊が種類に応じて二、三本入っていた他に不要なものがあるようには見えない。
 なんなんだ。
 容量に問題はなさそうに見える。形状が横から見ると台形なので下部にやや入れにくい印象はあるが、それでも小さくはない。標準的なポーチだろう。でも食後よろしく膨れている。
 他の人はこの問題をどのように解決しているのか。しばしば明らかに私より荷物が少ない人のほうが準備がいいという場面に出くわす。この浅ましく膨れたポーチにはハサミすら入っていないし。
 社会に馴染みのいい人は、ポーチに入れるものを選別する力があるように思う。必要なものとそうでないものの取捨選択が上手いのだろう。そしてそれは私に備わっていない能力なのだ。だからポーチは膨れ、鞄のベルトも千切れる。
 人はポーチに何を入れているのだろうか。私にはポーチが分からぬ。百億光年の孤独を感じる。火星よりも遠い。

 もしかすると、地球人はこのようなときに雑誌を読むんですか?